世界は私に救われたいのか③
思いっきり特定の人の話になるけれど、まぁこのブログにたどりつくことはまずないので私が見た体験談。
この前のエスワティニ(旧スワジランド)滞在は去年のクリスマスシーズン。それもあってか、私がお世話になっている孤児院には訪問者が多く来ていた。ちなみにエスワティニは敬虔なキリスト教国でこの孤児院もしかり、その日訪ねてきたのも2つの外国人キリスト教グループだった。
子供たちを礼拝堂に集め最初のグループは聖書とゴムボールを、次のグループは聖書とおかしを一人一人に配り、記念撮影をした。数多くの子どもたちにギフトを届けるためにどちらも1時間も滞在せずに次の施設に向かっていった。
ただ。。ここの子どもたち、皆もうすでに聖書を持っている。そして内容が共通している聖書は1冊あればそれ以上はいらないものなのよ。
訪問者の人達が帰った後、子供たちは礼拝堂に聖書を置いていき、職員の人がそれを持ってどこかに行った。聖書は分厚くて場所をとるけれど、彼らにとって聖書は聖なる書物で、無料カタログと同じようには扱えないはず。
きっと別の日も誰かが事情を聞かないままギフトとして持ち込み、そのうち場所がなくなったら職員の人達が信仰心を痛めながら廃棄するんだろうその聖書に、もやもやが止まらなかった。
一方で、同時期のホームには昔ここで長期ボランティアをしていてクリスマスシーズンに戻ってきたというオーストラリアの女性がいて、子供たちとただただ他愛もない時を共有していた。
本来、キリスト教徒の人はクリスマスを家族で過ごす。訪問者の1人も、クリスマスには君たちと同い年くらいの孫たちが遊びに来て家族でパーティーをするんだと話していた。まさに絵にかいたようなクリスマス、そしてエイズ遺児の孤児院で暮らす子供たちにとっては叶わないこと。
このお姉さんはそんな子どもたちに特別なことをするわけではないけれど、小さい子たちと遊び(どちらかと言うと子どもたちに遊ばれw)大きい子たちと語りクリスマスシーズンを共に過ごした。
”誰かを支える、幸せにする”ことを掲げている活動がその効率の良さや実績数で評価されることには私はなんだかなぁと思ってしまう。
もちろん、効率がいいこと自体はとてもいいことだし、数字自体に悪はない。
でも、そればっかりを追い求めたらなんだかすごく雑なことにならないかしら、それって本来目指していた”誰かを支える、幸せにする”に繋がれるのかしらと疑問なの。
この活動で何人の子どもたちにギフトが渡ったかとか、どれだけ効率よくインパクトを出せているかとかはあくまでも支援をする側の都合で、支援をする側が自分たちを有能に見せるために必要なデータで、支援を受ける側にとっては意味をなさない。
嵐のようにやってきて、効率よく活動した慈善グループは数日間で何千人もの子供たちにギフトを届けたという実績は作れたかもしれない。
でも、何か月も国にいてたった47人の子どもと何でもない時間を過ごしているだけのお姉さんの“活動の効率化”を、子どもたちは望んでいるだろうか。
人を相手にした活動の価値基準ってなんなんだろう、何であるべきなんだろう。
う~~~~~~ん。。。思い出してはもやもや。。
今日めっちゃ訪問者来るねと私が言うとある子が“They like to come, it’s Christmas(彼らは来たいんだよ、クリスマスだからね)”と答えた。
深い意味はないかもしれないけど、その活動を望み選んだのは子どもたちじゃなくて“They”。
そう望んだ理由は、子どもたちのクリスマスを幸せなものにしたいという純粋な気持ちかもしれないし、もしかしたら打算的なものだったのかもしれない。その本心は本人以外わかりえないし、彼らの親切心を疑いすぎかもしれない。
私が見たのは、一瞬の訪問劇と、慣れた様子でそれに対応する子どもたちと、置いてきぼりにされた聖書と、後片付けをする職員の人と、何事もなかったかのように片付いた礼拝堂と、そこでまた数時間後2グループめの訪問者と皆がほぼ同じことをする様子だけ。何を思っていたかまでは見えない。
でも、もしも“その聖書、いらないよ”と子どもたちから言われたとして、
“受け取ってくれないと困る、君たちが聖書を受け取ることが僕たちの評価にかかわるんだ”
ともしも彼らがどこかで思うのであれば、それがきっとポバティーインクで、そこで交わされるべき言葉は
“聖書をくれてありがとう”ではなくて“聖書を受け取ってくれてありがとう” だと思う。
ポバティーインクのサブタイトルは “あなたの寄付の不都合な真実”。
誰かを支えるってどういうことなのか、大事なことはなんなのか。
考え続けなきゃなっていう自戒の意味と、誰かの寄付の”不都合な真実”というか”微妙な終着点”?への皮肉もちょっぴり込めて。