世界は私に救われたいのか②
Poverty, Inc (ポバティーインク、直訳すると 株式会社“貧困”)という映画をご存知でしょうか。
以前ちょっと見て色々なことを考えさせられる映画だったのでこの前ついにDVDを買っちゃいました。なので今回はその感想文、の前にこちらの動画をどうぞ。
かなり社会派な映画なので色々な意見があると思うし、私が敬愛する支援活動をしている皆さままで気分を害するかもしれないけど、私がいいなと思う活動とう~んと思う活動の違いは改めて書く予定なのでもやもやしたら今はご容赦ください。。
というわけで、この映画の告知動画や本編から気になる言葉を集めました。
自分への備忘録というか戒めの意味も込めて。
”その行動は良心から生まれてはいるけれど、先入観でできている”
貧困のチャリティーキャンペーンが自分たちに“お前は貧しい”と言い続けるんだ、とあるアフリカに向けたキャンペーンに対してアフリカの人が言った言葉。
参加する人たちは心からアフリカを救おうと想っているだろうし、その良心はわかっていますと念を押しつつ、でもそれによって自分たちが得たのは自分たちのふるさとアフリカはHelpless(絶望的にかわいそう)だというイメージだと彼女は言う。
資料を作っている時に気づいたことで、お時間あればやってみてほしいこと。Googleで“アフリカ 子供 フリーイラスト”で検索すると、やせ細った貧困の子供のイメージが上位に結構あがってくる。アフリカをヨーロッパに変えて同じ検索をすると貧困のイメージは私が見る限りない。
アフリカを救おうキャンペーンをやればやるほどこのイメージは強くなり、そしてHelplessなイメージが強くなれば強くなるほどその魅力は下がって経済力も下がる。
国家ブランド指数という経済論では”イメージをあげるような活動をしよう、それが国の経済にも繋がるよ”と指摘しているんだけど、その活動によって誰かのイメージを下げていないかも考えるべきだと思う。(本当に相手を助ける気があれば)
”寄付や援助をしている人は援助している自分に酔っている”
ものすごいぐさっとくる言葉だけど、こう感じている人は“施しを受けている”人のなかに多い、というか知り合いにも多い。なんなら子供時代の私もこう思う時があった。
もちろん、本人に“あなた自分に酔ってますよね”とか“これって自分がいいことしたと気分良くなるためにやってますよね”とかは決して言わないし、いいことをしたとゴキゲンになっている人をより気持ちよくさせる言葉や方法も結構知っている。
でも、私の知り合いには“あいつら(あの国)はヒーロー気取りでいるけれどあいつらがヒーロー気分になるために俺たち(俺たちの国)は協力してやってるんだ、だから金をもらって当然だ”という持論を展開する人がいる。あいつらの国の大統領に言ったら消されそうだけど(笑)、受け止め方なんてそんなもんなのかなとも思う。
17歳の作文で書いた通り、私も色々な支援に対して有難いとも思いつつ”妙に気に障る”と感じていた。
“あなたは施しを受けているんだ、あなたの生活はあなたの力でなりたっているものじゃないんだ”と強調されることが気分のいいことではない、自尊心が傷つくことなのは想像できるはず。その想像力は誰に対しても働かせていたいなぁと思う。
”支援が恩着せがましい”
いいことをしている気分の人にとって不快極まりない言葉だろうし、心から自分がいいことをしていると思っているとなぜありがた迷惑だと言われるのかわからないと思う。
でも、常識も文化も全然違う国では自分の価値観とは全然違う基準やペースでものごとが動いている。相手がありがた迷惑だと感じてしまったらそれはありがた迷惑。
もし自分が“施してあげた人”に、恩着せがましい・ありがた迷惑だと言われたらどうするか。“あ、ごめんねどうすればよかった?”と聞けるか。そもそもどうすれば相手が嬉しいのか確認もしないで、これは良いに決まっている!と顔も知らない世界の誰かに送り付ける行動を善意と呼ぶのか。
引っ越し前日に巨大な高級ソファーを送ってこられたら完全に嫌がらせじゃん(笑)友達を喜ばせるためのプレゼントなら、欲しいものとか送ってほしいタイミングとか知ろうとするじゃん。
相手を喜ばせるための行動なら、相手にあわせなきゃいけない。まして価値基準が違いすぎる海外では、自分の感覚と相手の感覚はズレて当然。だからこそ相手を知らなきゃいけないなと自戒も込めて改めて思う。
”まるで自立してほしくないみたいだ”
支援を受ける側に関しては、劇中の人のように生涯施しを乞うなんて嫌だという人と、施されるならもらっといたほうが楽だしいいという人だっている気がする。でも、どちらにしても生涯施しを受けることはその人のがんばりを邪魔し、自立を妨げることに繋がる。
そして支援をする側。もしももう施しはいらない、自分たちで自立してやっていきたいと言われた時、
“いらないって言われると、自立されるとこっちも困るんだよ”という思いが起きてしまう人がいれば、
“君たちが僕たちの施しの相手でいることで僕たちの活動やストーリーは成り立っているんだよ”という団体があれば、
それは慈善事業ではなくてポバティーインクだ。
その事業の中心は支援を受ける側ではなくて支援をする側で、支援を受ける側の気持ちや都合ではなく支援をする側の気持ちや都合でものごとが動いて、支援を受ける側は振り回される。
そしてそんな“支援者”は自分のことを心から想ってくれているわけではなくて、彼らの施しによって笑顔になれた被写体対象、慈善事業の受益者という手柄のカウントの1つとして自分を見ていることを、支援を受ける側は結構見抜いていると思う。
”必要なのはあらゆる形での繋がりだ”
学者の人が貧困を“生産や貿易の輪の中から外されることだ”と定義している中で出てくる言葉で、貧困の解決には相手を経済サイクルの中に入れることが大事なんだと続ける。
アフリカの人は劇中でアフリカは金やダイヤや原油とかの資源が豊富で世界に提供してきた側なのに、自分たちはあくまで援助の対象であってパートナーではないと世界から思われていると批判している。そしてほぼ同じことを私の知り合いも言う。
相手に一方的になにかをしてあげる支援は、相手を輪の中に入れているわけではなくて、ものごとがいつも上から下に動く。グローバル経済のサイクルとか大きい話だけじゃなくて、個人的な関係でも同じような上下の意識ってとても根強くて、それって相手を輪の中にいれることへの大きな妨げになっていると思う。
自分のしたことが人の役に立つのは誇らしい、というのも劇中の言葉。
それは自然な感情で、だから社会貢献活動をするという人は多いだろうし、それ自体は良いことだと思う。でも、自分が人の役に立ちたいと思っているのと同じように相手も人の役に立ちたいと思っているし、誰かの役に立つ何かを持っているはず。
そこを知り、尊重する姿勢、自分と相手の立場は対等だという意識は絶対に必要。
友達の言葉を借りれば、““自分ってこんな人たちを相手にしていて偉い”と思うなら来るな” と思う人がいることは知っておいた方がいいと思うなあ。(実際には来るなではなく放送禁止用語を使ってました。。)
安易な言い方だけど、同じ人間同士なんだから、ね。
”貧しい人はチャリティーの対象(object of charity)ではなく、彼ら自身の発展物語の主体者(subject of their own story of development)だ”
proud storyが目指したいこと、storyという言葉まで使われて映画の中に!
ここで、ありがちな支援の仕方はこう解説されている。
①対処すべき問題と救うべき人を特定
②問題に対して組織的に機械的に対処し貧しい人々は理論(原文ではtheir story)にはめ込まれる
これってすごく効率的で、でも主役が支援をする側になっているストーリー。
命の危機があるような場合を除いて、本来主体的になるべきは、主役は、あくまでも彼らだと思う。というか私は思いたい。
寄付者と受益者としての関係ではなくパートナーシップを、という言葉に加えて、”計画は現地に任せるべきだ”とも映画の中の人は言っている。
”こちらサイド”からすると現地の人達に任せた計画ややり方は効率が悪いように見えるはず。
かくいう私も、”自慢話プレゼンを撮ってもらい国際教育の教材として買い取る”という計画を立てたものの、ペースはお任せにしたら特にエスワティニとは”進まねぇぇぇぇ!!!”と思いながら付き合っている(笑)。。と、おととい”来月proud storyの撮影準備を始めたよ”と連絡が来た!ちなみに最初に頼んだのは去年の春です(笑)来月本当に撮影するのかも不明で、このやり方が正解だという気も正直していない。
そんなこんなで、こちらはすっごいやきもきもするけれど、この期間ずっと”元気?””元気だよ~”みたいな会話はしてたし、年末にエスワティニを再訪した時も皆元気だったし、彼らのペースでやるのが心地よさそう。
外貨が欲しいパートナー団体はコンスタントに送ってきてくれるし、この前フィリピンのNGOが”キッズキャンプ開催しようと思っていてお金が必要だから中継イベントやろうよ”と声をかけてくれたのはとても嬉しかった。
自分たちで決めたやりかたで、自分たちの心地いいペースでも進んでいいと思う。舗装された道を早く進むことが幸せに繋がるとは限らない。
誰かが持ってきた計画で働くよりも自分たちで決めた計画で動く方がよっぽど主体的に動けるはずだから、そのうち案や計画みたいなものも向こうからどんどん出てくるようになったら楽しいなと思うし、
活動に”彼らを助ける”という意味を持たせるのであれば、
このストーリーで僕が問題を解決して君たちを助けるから話をあわせてくれ、じゃなくて、
みんなが自分で自由にストーリーを描いて、そのストーリーを実現するために必要なことがあれば手助けする、というのがいいなぁ好きだなぁと私は思う。
ちなみにこの映画の監督は大事なのは産業化プランでも経営者資本主義でもなく、人々の創造的能力であると下のインタビューに答えていて、私にはなんだか響いた。
・・・けど、なんだか響いた”人々の創造的能力”って言葉を具体的にどう活動に落とし込むかはまだまだ解読が必要そう。頭の中哲学ちっくになってきた。。
というわけでproud story、株式会社らしさらはどうやって出していくのか正直うむむむむ状態ですが、、
そっちに意識が向かって大事なことを忘れないように、忘れたくないことの備忘録として書いてみました。
皆が歩きたい道を歩けたらいいなぁ。